Twitterで以下のような話をした。
ちょうどいい情報共有の量があると思っていて、最適化する方法は、多めから減らしていくパターンと少なめから増やしていくパターン、振動させて収束させるパターンの3つがあると思う。
— matoba (@mtb_beta) 2020年8月28日
フルリモートは、多めから減らしていくかのがうまくいくのかなとか思った。 https://t.co/ogWof1unf8
情報共有量は「知りたい時に知りたいものが知れる」でいいと思っていて、基本は0がいいと思ってます。共有コストは高すぎるので。 https://t.co/PfPKamqyk0
— V (@voluntas) 2020年8月28日
情報共有の量と言うのは、作られた資料や残った記録の量ではなくて、明示的に伝わったことを確認する情報の量を指していますか?
— matoba (@mtb_beta) 2020年8月28日
僕は前者のイメージで話していたのですが、何も記録は残さず、どうすれば知りたい時に知りたいものを知れる状況が想像できなかったので、前提がズレているのかなと。
自分は「情報を相手に共有する量」なので相手に伝わったことを確認する情報の量を指しています。自分は資料を書くは情報共有とは考えていないです。ただの記録でしか無いかなと。
— V (@voluntas) 2020年8月28日
なるほど。
— matoba (@mtb_beta) 2020年8月28日
自分は、自分がいない時に他の人に情報を共有するために資料を書いている部分があったので、資料を書くことは情報共有と考えていました。
この話をした後にこんなことを思った。
記録を残す目的って情報共有以外に何があるのだろう。
— matoba (@mtb_beta) 2020年8月28日
あとで、振り返るためとかだろうか。
何となく自分が記録という概念についてわかっていないこと、もしくは忘れているようなことがあるように感じた。
何となく最近の自分は、ブログを書くモチベーションが湧かなくなっていることが気になっていた。あと、voluntas さんのブログ(主に時雨堂関係の情報)を拝見した際に「この記事は、どういうモチベーションとか、どういうタイミングで書こうと考えたのだろう?」と思ったことがあった。(対象読者や主旨が想像できないけど、重要な情報が書かれていると感じることが多いので)
で、もう少し考えていると、自分の中で「記録」という概念の意味がぼんやりしていることに気づいた。
そこで、「記録とは何か」を辞書で調べていると次のページにたどり着いた。
気になったのは以下の点。
なお近代では,記録と文書の概念上の混用がみられ,文書課の保存資料を記録と呼ぶこともある。
後、次の話も気になる。
著作物である典籍や,おのれの意思・用件などを相手に伝える目的で書かれたものを文書(もんじよ)とよぶのに対し,原則として自己(近親者あるいは所属の機関なども含む)の備忘のため書きとめたものを記録といい,主として日記類がこれに該当する。
だんだんわかってきたのが、自分の中で「文書」と「記録」の境界がボケているということ。
以前は、文章を書くと言えば、ブログに書くことが多かった。そしてブログに書くことは、備忘録だった。自分が調べたことや学んだことをメモする場所がブログだった。
ただ、次第に自分の文章が誰かに読まれることを意識するようになると、記録というより文書の側面が強くなっていった。ブログの記事もある程度は、想定読者を考えつつ、文章や情報を整えることが増えた。要は、ブログの記事が文書化していった。
すると、だんだんブログが書きにくくなっていった。そもそも誰かに何かを伝えたい時にブログが最も適切な手段になることはそう多くないと思う。不特定多数が見る可能性のある場所に想定読者を設定して書くのは、なんか違うような気がしてしまう。
そういう話をいろいろ考えて、まとめると、自分が忘れるための記録を残すために書いてないからブログを書きにくいと感じるんだなあ、と思い始めた。また、自分以外の誰かが忘れた時や知りたいと思った時に参照するために記録を残していると考えると、ブログを書く理由が自分の中で腹落ちした。
というわけで、しばらくはブログの更新がなかったけど、改めてブログを更新していきたいと思ったところでした。
追伸:ついでに、ブログのタイトルは「matobaの備忘録」に変えました。