matobaの備忘録

和歌山と東京を往復しつつ活動するエンジニアの記録

一つの意見をまとめた記事

ブログは適切な分量で一つ一つ区切っていくのが良いように思っています。というか私はそういうふうにまとまっている方が好きではあります。なんとなく、一つの意見としてまとまっているのが好きなんですかね。

なぜ、まとまっている方が好きか

なぜ、まとまっている方が好きか。というと、過去の自分の考えがある程度グルーピングされた状態の方が扱いやすいから、というふうに思います。文章が断片的になっている時、その一つ一つの情報の意味がどういう意味なのかを推測したり思い出すのに時間がかかります。なんでそれを言ってるのかわからないことがたくさんあります。

そういう状態は、情報を点でしか捉えられていない状態です。本当は、情報を線や面、立体で捉えて意味を把握したいと思っています。私は。「情報を立体で捉える」と言う話の一つの側面として、誰が言ったのかで意味が変わると言う話をします。

「誰が言ったのか」が紐づいた情報は「意見」でもあると思ってます。

誰が言ったのかで意味が変わる

私は同じ発言であっても誰が言ったかに意味も踏まえて考えてます。この話に関連する主張として「誰が言ったか、ではなく、正しいことを言ってるかが重要だ」みたいな主張を見たことがあります。私もそういう主張の近くにいたことはあります。「なんで僕が言っても前に進まないのに、別の人が言えば前に進むんだ」と言う不満を持ったこともあります。若い。

そして、その主張は一理あると思っています。「誰が言ったことか」ではなく「正しいことかどうか」を考えるのは重要だと思ってます。ただ、「正しいことを言うかどうかが重要」と言うは微妙なラインであると思ってます。

正しいことが何かを考えるのは重要だが

「正しいことが何か」と言うのを考えるのは重要だと思いますし、それを考えていることを話したり、議論するのも大切だと思います。しかし、どんな時も「これが正しい」と主張することが重要かというと、どうかなあ、微妙だな、と思います。うーん。

自分の意見を主張すべき適切なタイミングがあるように思います。「いつでも主張すれば良いと言うわけではない」と思っています。「どんな時も主張しないのが良い」とも思わないのですが。あと、「主張すべき時に主張できるように自分の意見は考えるべき」とは思っています。

歳をとった気がしてくる

こんな話をしていると、自分も歳をとったような気がしてきます。 もっと若い頃は「自分の考えていることが正しいはずだ」と思っていたように思います。いろいろな経験をしてくると「どうやら私の考えていることは、なかな間違っていることが多い。と言う私は知らないことが多いようだ」と思ってきました。

逆に言うと「私は知らないことが多い」と言う当たり前の事実にすら本当の意味で気付いていない時期があったと言うことでもあります。恥ずかしい話でもありますが、無知の知と言う言葉もありますので、この辺は特に隠すつもりもありません。

世界は想像より複雑

そもそも、私に見えている情報だけでなく、他の人に見えてる情報も踏まえたら話の筋が通らない状況がたくさんあります。そして、多くの立場の人と話をする経験が増えるほど、その状況は増えていきます。経験を積んだ方々と話をすることが増えていくほど、年齢を重ね上の世代のいろんな方と話をする機会が増えるほど、「どうやら世界は自分が想像していたよりかなり複雑だ」と言うことを日々感じたりします。

自分なりの意見を出すのが恐縮になってくる

様々な方とお話をする中で自分の意見を述べることもあります。前述の通り、自分なりの意見を考えることは重要だと思っていますし、何なら意見は言いたい人なので、意見を述べることはやぶさかではありません。

ただ、みなさん多様な経験をされておりますので、「私のような若輩者が提案させていただきます。恐縮ですが、私の少ない経験と見識をもとに考えてみたらこんな状況になってますがどうでしょうか?」と言う気持ちになってきました。

ただし、私はこんな風に丁寧な言い方をされたり、変に畏まった表現で話をされるのが好きではないので、こんな表現はしないのですが。

はい。

だから何と言う話ではないのですが、今回はこんな話でした。

ではでは。