matobaの備忘録

和歌山と東京を往復しつつ活動するエンジニアの記録

日本語の情報を増やす

今日は「もっと日本語の情報を増やす」という話をします。 私が色々この考えに至った理由はあるわけですが、次の本の影響は大きく受けています。今日はこの話をしていきます。

なぜ、日本語の情報を増やすの?

まず、タイトルの話から派生することを言いましょう。「なぜ、日本語の情報を増やすか」というと、それは「日本語の情報が増えることで、日本で研究が進みやすくなるから。技術力が高まりやすくなるから」です。言われてみたら当たり前でしょうか。どうですか?

なぜ、こんな話をしているかというと、私が「技術系の情報は結局、英語のものを見た方が速いし、確実。最近はDeepLやChatGPTもあるから、日本語で情報があるかどうかって関係ないんじゃないの?」とか思っていたからですね。

それは違うんじゃないかな、と思っています。続きます。

母語の方がスピードが上がる

この記事を読んでいる人は、日本人であり、日本語が母語の方ですよね。英語圏の人はわざわざ読まないように思います。

日本人でも英語が読める人はたくさんいると思いますが、日本語と英語だとどっちの方が速く理解できるか、どっちの方が脳の効率よく理解できるか、を考えると、ほとんどの方は、日本語だと答えるのではないかと思います。

DeepLなどの翻訳ツールは確かに言語の壁を低くしてくれているのですが、それでも翻訳の待ち時間があります。ということは、最初から日本語になっていた方が速いわけです。つまり、翻訳ツールを噛ませるということは、それだけ情報のインプットの速度が下がっているわけです。

日本語なら5秒で理解できる文章が英語であったとします。 翻訳ツールを使う場合、3秒かけて日本語に変換して読んだとします。 8秒かかります。さらに誤変換を疑うと結局、英語を見ることもありますね。 英語も読むと、さらに7秒と考えましょう。

じゃあ合計 15秒かかるわけです。ネイティブなら、5秒で理解できる情報が15秒かかるわけです。300%の時間がかかるわけです。これはかなり大雑把な計算ですが、それでもオーバーヘッドがあるのは確実です。

確かに、英語の方が情報が多く確実な場面はあります。しかし、それは日本語で情報がなくていい理由にはなりません。同じくらいか、それ以上に日本語で情報があり、それが正確であれば、母語が日本語である私たちからするとそっちの方がいいわけです。

この話に近い内容が、本の中にあります。

学ぶ言語が外国語ならローカライズが精一杯

ここで、本の中の文章を流用します。

明治期は教師もほとんどが外国人で授業も教科書も外国語、日本人は西洋人の「生徒」と言う状況でした。研究内容も、〜(略)〜など、土着の珍しい対象によく知られた科学的な方法を応用するのが精一杯でした。それが大正になって人材育成を日本語で行えるようになると、オリジナルな研究をする余裕が出てきたのです。

P103 文系と理系はなぜ分かれたのか

この文章は非常に面白いと思っています。

明治時代は、教師の多くが外国人であり、教科書も外国語だったと。なので、外国語を理解するのに精一杯で、日本人はオリジナルの研究をする余裕がなく、海外の研究をローカライズするのが精一杯だった、ということです。

それが、日本語での教育が増えるにつれて、オリジナルの研究をする余裕が生まれて行った、そういう歴史があります。逆にいえば、日本語の情報が減っていくということは、オリジナルの研究をする余裕が失われていくことにつながっていきます。

オリジナルの研究ができるようになったが、マーケティングが内向きだった結果として、ガラパゴス化が発生したのはあると思いますが、それは別の話です。とにかく、面白いと思ったのは、「このオリジナルを研究するハードルが高い」と言う問題が「人材育成を日本語で行えるようになる」で解消されたと言う話です。

学習環境がオリジナルを産む

新しい何かを生み出したいとき、そのためには必ず制約があります。仕事であれば、時間やお金が制約になりますし、個人での活動でもモチベーションが続く期間も制約になるように思います。

「より新しいことを成し遂げる」と言うことを別の言い方で言うと、「ある制約の範囲内でできるだけ新しいことを成し遂げる」と言う話になります。そのためには、時間 or お金あたりで成し遂げられることを増やしていくことになると思います。

スピードが上がれば余裕が生まれる

技術について色んなことをしている場合、新しい物事を学んだり考えたりすることの繰り返しです。そこには気力が必要です。わからないことや難解な構造を頭の中でコネコネして、自分なりに理解して次を検討します。しかし、頭の中でコネコネするためには、母語に変換する必要があります。母語でまぶことができれば、思考に余裕が生まれます。

それを日本として社会的に実現するための一つの手段が、「日本語の学習環境を整える」と言うことだったのだと、思っています。例えば、英語で学べば3時間かかることも、誰かが日本語で学べるようにしてくれていると、1時間で学べるかもしれません。そうすれば、2時間は別の何かを学ぶことができます。そうすれば、オリジナルな何かを作るための時間が生まれます。

パーキンソンの法則により、仕事時間は与えられた時間まで膨張しますが、理解が速くなれば、その膨張の結果、新しい工夫が生み出されるように思います。

学びやすさを上げることが大切

何にしても、既存の知識が学びやすくなっているほど、新しい工夫や技術が生み出されやすくなるのだと思います。だから、より新しい工夫や技術を増やすためには、どうやって既存の知識を学びやすくするか、を考えるのが大切です。

そして、Webを利用した学びやすさの向上は、スケーラビリティが高いですね。一つの教育コンテンツを作れば、それが場所、時間、スピードを超えていきます。各自が自分に合ったタイミングで学ぶことにつながります。

日本人が日本人に伝える

私が言ってる「日本語の情報を増やす」は、「英語を日本語に翻訳したものを増やす」だけでなく「日本人が日本語で説明する」ということでより意味を成すと考えています。

それがなぜか...というのは話が長くなるので、今回はここで終わります。

ちなみに

文系と理系がなぜ別れたのかの話について。この書籍の中には、そもそも文系と理系の分類は国によって違うとか、国によっては3つ以上に分かれるとか、時代によっては分かれていない、同じ名前でも意味が違うとかの話があります。

で、その流れの中で、日本の学問がどうやって形成されて行ったのか、の歴史について説明があります。なので、「日本の歴史によって文系と理系が生まれた」という側面が強くなっているようです。興味がある人は本を読んでください。

なぜ、私がこの本を読んだのか

ついでなので、私がなぜこの本を読んだのかの話も軽くします。

僕はたくさんの本を読みます。「なんとなく気になったから」という理由で読んでいる本がたくさんあります。この本もそのうちの一つです。本屋で出会い、タイトルに惹かれて読んでみました。

僕は学部と院で違う大学に行っているのですが、学部は、機器やロボの制御・管理するコンピュータの側面が強く、数学・物理的な話が多くなっていました。一方で、院では人間工学的な認知や使いやすさ、エンタメを考える道具としてのコンピュータの側面が強く、心理的・社会的な話が多いと感じてました。

情報系は、なんとなく理系に分類されることが多いように思いますが、個人的には、理系と文系ってなんなの?と思っていた節があります。そんな状況もあり、私はこの本のテーマに惹かれたのがあります。

はい。

まあ、今回はここら辺で終わります。 ではでは