matobaの備忘録

育児しながら働くあるエンジニアの記録

「書いて発信すること」の価値を改めて考えた

これは考えたことをつらつらと書いた記事です。今の考えを現在地として残すような記事。

情報を発信することは普通になった

インターネット上で何かしらの情報を発信するのはもう普通になっている。10年前なら情報を発信している人はまだ少なかったし、5年前でも「情報を発信している人はすごい」と言う風潮があったと思う。ただ、今では情報を発信するのが普通になった。なので情報を発信するだけではなくどんな情報を発信しているのかに意識が集まるようになった。

価値の高い情報しか価値がない?

情報の価値としては、独自性や新規性のある経験や知識の価値が高い。また、情報の価値を考えると「自分がそんなに独自性や新規性のある経験や知識を持っているのだろうか?」と思うことは多々ある。そして、自分の知っていることに価値を見出せず、情報を発信する意味がないように感じることもある。何なら、自分が情報を発信することによって、より価値のある情報が埋もれてしまうとも考えていた。なので、価値ある情報発信でなければ控えべきではないか、と思ったりもした。

ただ、ChatGPTのような大量のデータを処理できる仕組みを触っていると感じ方が変わってきた。大量のデータ処理が簡単になるほど、大きな独自性や新規性がなくとも、ほんの少しの独自性や新規性、表現が違う、サンプルが増える、など色んな価値があるように見えてきた。

ブログを書いた後の感覚が以前と違う

ここ数日、ブログをいくつか更新してみた。これは何となく気分でブログを更新しただけではあるが、以前とは違うことを感じた。それは価値が高い情報を発信できなくても、自分なりに情報を整理してブログに書くことで自分にとって、価値が出てくると言う話。その価値を改めて実感できたのは嬉しい。

新規性や独自性のある情報を作って、それを最初に発信するのは当然価値が高い。 しかし、そういう人が発信した新規性や独自性のある情報を理解し、それを当たり前の知識にしていく活動にも価値がある。 AIの学習に利用されたとしても、ちゃんと1サンプルとして吸収されるなら、まあいいかなと思う。

自分の言葉で書くことに意味がつく

新規性や独自性を生み出す活動とそれを人に伝える活動を考えると、私は前者の活動に憧れがある。ただ、『自分で新しい仕組みを生み出していない』と言うことは『情報を発信する価値がない』という話にはならない。情報を人に伝えたり、理解しやすい状態にすることにも価値がある。

なので、自分にとって当たり前だと思えるような話でも、改めて自分の言葉で書いて発信することに意味があると感じている。

書くことで現在地が明らかになる

関連した話として、書くことによって自分の知識量や理解の現在地を明確にできる。そうすることで「知らないこと」「わからないこと」「曖昧なこと」などが明確になる。ブログなどで自分が発信したトピックは、その分野に特化した人たちや同じ趣味を持つ人たちから反応があることも多く、自然とアンテナが立ちやすくなる。

私は「ここまで知っている(そして、その先はまだわからない)」と言うラインが見える化されることで、人とも話しやすくなる。

終わり

現代の生活では誰もがたくさんの情報に触れて、それらを漠然と消化している。自分自身の生活で感じたことや日々の発見や学びを発信することで、発信したトピックについてより深い理解が得られるようになると言うことが今回の発見。大したことない情報でも、無理のないペースや分量で発信していくことが大事だ、と言うことに改めて気づいた。

今回は終わり。

余談

ちなみにこのブログ記事をChatGPTに要約してもらうとこうなる。

情報発信は一般的になったが、独自性や新規性がある情報に重点を置く風潮がある。しかし、大量のデータ処理の技術が進化したことで、少しの独自性や新規性でも価値があるという意識が生まれた。自分なりに情報を整理してブログに書くことで自己成長を感じ、自分の言葉で書くことに意味があると感じるようになった。また、書くことで自分の現在地が明確になり、他人とも話しやすくなることがわかった。大したことのない情報でも、無理のないペースで発信することが大切である。